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清澄丸 (特設巡洋艦) : ウィキペディア日本語版
清澄丸 (特設巡洋艦)[きよすみまる]

清澄丸(きよすみまる〔〔#松井p.123〕〔「きよみまる」(Kiyozumi Maru)とする資料やサイトもある(、)。しかし、#日本汽船名簿・清澄丸での振り仮名は「キヨスミ」と、「ス」に濁点を振っていない。〕)は、かつて国際汽船が運航していた貨物船太平洋戦争では特設巡洋艦および特設運送船として運用された。
==概要==
1919年(大正8年)7月、川崎造船所で建造中のストックボートや、委託された造船所所有船などを船隊の主力とし、遠洋航路経営のために川崎造船所や鈴木商店などが出資した国際汽船が創立された〔#商船八十年史p.48〕。2年後の1921年(大正10年)には、同じような目的で設立された川崎汽船や川崎造船所船舶部と航路の共同運営を開始。「Kライン」の始まりとなる〔〔#松井pp.87-88〕。しかし、不況により収入が上がらず、減資を行ったものの改善しなかったため、1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌をきっかけに銀行の管理下に入ることとなって「Kライン」から離脱した〔#商船八十年史p.49,53〕〔#松井p.89〕。その後、さらなる減資や利息の支払猶予などの救済策、低性能船の整理などが講じられた結果、経営状況は改善〔#松井p.120〕。また、政府による船舶改善助成施設などを活用した大幅な船質改善を行い、国際汽船の船隊は優秀船を主体とする船隊に変貌した〔。
「清澄丸」は船舶改善助成施設適用船として川崎造船所で建造され、1934年(昭和9年)10月5日に竣工する〔〔#船舶改善助成施設実績調査表p.2〕〔この時、国際汽船では第一次船舶改善助成施設で「清澄丸」のほかに「鹿野丸」(8,572トン)と「金剛丸」(8,624トン)を建造しているが(#船舶改善助成施設実績調査表p.2)、「船舶改善助成施設実績調査表」では「清澄丸」が播磨造船所で、「金剛丸」が川崎造船所で建造、となっている。造船所建造番号は、「清澄丸」が川崎造船所第583番船、「金剛丸」が播磨造船所205番船であるが(#播磨造船所50年史p.87, pp.450-451 、#川重社史年表諸表pp.186-187)、「船舶改善助成施設実績調査表」では「金剛丸」と「清澄丸」が入れ替わっている(「清澄丸」=播磨第205番船、「金剛丸」=川崎第583番船)。ただし、#日本汽船名簿・清澄丸#日本汽船名簿・金剛丸での記述や「船舶改善助成施設実績調査表」の作成時期から察すると、「船舶改善助成施設実績調査表」の単純な誤りのほかに、国際汽船が何らかの理由で両船の名前を進水前に入れ替えた可能性がある。〕。竣工後は日本郵船の委託船となってニューヨーク航路に就航する〔#神戸又新360412〕。以後、委託船および1937年(昭和12年)2月の大阪商船による国際汽船の経営の実権掌握以降は自主運航船として約7年間の商業航海を行った〔#商船八十年史p.90〕〔#野間p.207〕。1941年(昭和16年)11月1日付で日本海軍に徴傭され、呉鎮守府籍となる〔#特設原簿p.99〕。続いて12月1日付で特設巡洋艦として入籍し、12月13日まで大阪鉄工所桜島工場で特設巡洋艦としての艤装工事が行われた〔。主だった兵装は15センチ砲8基、53センチ魚雷発射管2基、水上偵察機1機であった〔。
特設巡洋艦となった「清澄丸」ではあるが、編成上連合艦隊隷下の第二十四戦隊(武田盛治少将)に入ったとはいえ、もっぱら輸送船として活用された〔#通商破壊隊命令作第二号p.2〕〔#木俣軽巡pp.210-211〕。K作戦への支援のあと〔〔#木俣軽巡p.211〕、1942年(昭和17年)5月、「清澄丸」は5月9日までに呉海軍工廠大発動艇(大発)5隻を搭載できるよう改装の命を受け、改装工事終了後は第二連合特別陸戦隊の指揮下に入り、サイパン島に進出する〔#呉鎮1705pp.21-22〕。ここで第二水雷戦隊田中頼三少将)、特務艦「宗谷」特設運送船「あるぜんちな丸」(大阪商船、12,755トン)および「ぶら志゛る丸」(大阪商船、12,752トン)などと合流し、MI(ミッドウェー島)攻略部隊を編成。九五式軽戦車や8センチ高角砲を積み込んだ「清澄丸」は、ほかの艦船とともに5月28日に出撃し、一路ミッドウェー島を目指して進撃する〔#木俣軽巡p.212〕〔#MI攻略部隊(2)p.45〕。しかし、攻略部隊は6月4日になってB-17PBY カタリナの雷爆撃を受け、翌6月5日にはミッドウェー海戦が生起して第一航空艦隊南雲忠一中将)が壊滅し、作戦が中止になったため「清澄丸」を含めた攻略部隊も反転せざるを得なかった〔#木俣軽巡pp.213-214〕。「清澄丸」は6月13日に大宮島(グアム)に帰投した〔
7月、「清澄丸」は南西方面に転じて第一南遣艦隊大川内伝七中将)主隊に編入される〔#一南遣1707p.31〕。7月31日にに進出し、インド洋通商破壊を行うB作戦のため待機〔#木俣軽巡p.228〕〔#一南遣1707p.40〕。しかし、待機中の8月7日にガダルカナル島にアメリカ軍が上陸したことにより状況は一変してB作戦は中止となり、「清澄丸」は昭南(シンガポール)に引き返したあと、8月25日付で連合艦隊付属に戻った〔#木俣軽巡p.229〕〔#一南遣1707pp.44-45, p.54〕。9月になってインド洋での通商破壊作戦のために特設巡洋艦「報国丸」(大阪商船、10,438トン)と「愛国丸」(大阪商船、10,437トン)が昭南に進出してくるが、作戦の前にガダルカナル島の戦いに投入される第三十八師団佐野忠義中将)のメダンからラバウルへの輸送を命じられ、「清澄丸」は2隻に合流して輸送作戦に参加した〔#木俣軽巡pp.244-245〕。次いで12月には「愛国丸」および特設巡洋艦「護国丸」(大阪商船、10,438トン)とともに、第五師団山本務中将)の一部をラバウルへ輸送することとなった。12月2日、昭南を出港し12月12日にラバウルに到着するも、輸送した部隊もろともマダンウェワク攻略の「ム号作戦」にそのまま転用される〔#木俣軽巡pp.350-351〕。12月13日付で第八艦隊三川軍一中将)の指揮下に入り〔#八艦1712p,46〕、12月16日にラバウルを出撃〔#木俣軽巡p.351〕。「清澄丸」は軽巡洋艦天龍」とともにウェワクに向かい、「愛国丸」と「護国丸」はともにマダンに向かった〔。マダンに向かった部隊は「護国丸」が爆撃を受けて損傷し、マダン行きに転じた「天龍」がアメリカ潜水艦「アルバコア」 (''USS Albacore, SS-218'') の雷撃で沈没するなどの被害を受けたが、ウェワク行きの「清澄丸」は無傷で部隊を揚陸させ、12月21日にラバウルに帰投した〔#木俣軽巡p.353〕〔#外南洋部隊(1)pp.34-35〕。
1943年(昭和18年)1月、「清澄丸」は第六飛行師団板花義一中将)用の軍需品輸送のため、横須賀からパラオに向かう丙二号輸送に従事する予定だったが、軍需品の到着が遅れたため輸送作戦は中止となった〔#丙号輸送部隊p.8〕〔#木俣軽巡pp.34-35〕。続く丙三号輸送では第二輸送隊に属し、特設巡洋艦「浮島丸」(大阪商船、4,730トン)とともに第四十一師団阿部平輔中将)主力をウェワクまで輸送することとなった〔。しかし、途中のパラオで編成替えが行われ、「清澄丸」は「愛国丸」および「護国丸」とともに第二輸送隊を編成〔#丙号輸送部隊pp.39-40, p.46〕。2月19日、第二輸送隊はパラオを出港してウェワクに向かうが、環礁外に出たところでアメリカの潜水艦ランナー (''USS Runner, SS-275'') の攻撃を受けるも、水上偵察機の対潜攻撃によりランナーを損傷させて事なきを得た〔#丙号輸送部隊pp.40-41〕〔#木俣軽巡p.362〕。第二輸送隊は2月22日にウェワクに到着し、物件を陸揚げして任務を完了〔#丙号輸送部隊p.46〕。この時点で全ての輸送作戦は終了し、「清澄丸」は輸送部隊から除かれた〔#丙号輸送部隊p.44〕。しばらくの間は日本本土と南方各地との間で輸送任務に従事し、3月10日午後にはの地点を航行中にアメリカの潜水艦キングフィッシュ (''USS Kingfish, SS-234'') に発見され、魚雷を3本発射されたが回避した〔#馬警1803p.4, pp.17-18, p.32〕〔#SS-234, USS KINGFISH, Part 1pp.75-76〕。夏から秋にかけては航空機輸送などを行った〔#木俣軽巡pp.464-465〕。
秋に入り、「清澄丸」は第十七師団酒井康中将)をラバウルに輸送する丁二号輸送に「護国丸」、水上機母艦秋津洲」および特設潜水母艦平安丸」(日本郵船、11,616トン)などとともに加わり、9月24日に上海を出撃〔#護国丸1809pp.14-15〕〔#木俣軽巡p.497〕。この間の10月1日付で特設運送船に類別変更される〔。任務終了で呉淞に戻ったあと、今度は第十七師団の残余兵力を輸送する丁四号輸送に「護国丸」および第十四戦隊(伊藤賢三少将)の軽巡洋艦「那珂」および「五十鈴」と第二輸送隊を編成して参加〔#護国丸1810pp.19-20〕〔#木俣軽巡p.504〕。10月21日に上海を出撃後〔#護国丸1810p.8〕、アメリカの潜水艦シャード (''USS Shad, SS-235'') の雷撃をかわし〔#護国丸1810p.9〕、トラック諸島を経てラバウルに向かう。しかし、11月3日にカビエン北北東の海域でB-24の爆撃を受けた。「清澄丸」は至近弾で機械室が浸水し、やがて機械と舵が故障して航行不能となった〔#護国丸1811p.4〕〔#十四戦1811(1)p.11〕。「清澄丸」は「五十鈴」に曳航されてカビエンに到着し、輸送物資や人員を他の艦船に移した〔#十四戦1811(1)p.17〕。カビエン停泊中の11月16日に国際汽船が大阪商船に合併され、「清澄丸」も書類上は大阪商船に移籍した〔#野間p.208〕。その後、カビエンを出港してトラックに向かったが、1944年(昭和19年)1月1日、の地点にさしかかったところでアメリカ潜水艦「バラオ」 (''USS Balao, SS-285'') の攻撃を受ける。「バラオ」は魚雷を6本発射して3つの爆発を確認〔#SS-285, USS BALAOpp.90-92, pp.101-102〕。「清澄丸」は前方に被害を受け、舵と推進器が海面上に露出するほど前部を沈めたものの、軽巡洋艦「大淀」などの支援を得てトラックに入港することができた〔#二水戦1901p.26〕。その後は夏島(デュブロン島)の北側で工作艦明石」の傍らに投錨して修理の順番を待ったが、2月17日早暁、アメリカ第58任務部隊マーク・ミッチャー中将)の艦載機の空襲を受け(トラック島空襲)、爆弾1発が船体を貫通して爆発し、7時42分、「清澄丸」は左に倒れて沈没した〔#木俣軽巡p.512〕。3月31日付で除籍および解傭〔。
現在、清澄丸は夏島(デュブロン島)の西〔沈没場所が投錨場所の北側ではなく西側となっているのは、空襲から回避するべく移動していたためと思われる。〕、水深25mの海底に右舷を上にして横転状態で沈没しており、1番船倉の右舷側、2番船倉と3番船倉の間の船底に破孔がみられるが、そのほかは原型をとどめている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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